点景
2003年1月-6月


2003年1月

大相撲

 若い頃から、日本の伝統芸能である、能や歌舞伎、文楽などを機会あるごとに楽しんで来ましたが、そこに大相撲というのがいつからか加わり、今ではかなり熱心なファンであると思っています。大相撲を実際に観戦したのは、十五年くらい前の七月の名古屋場所が初めてです。たまたま名古屋に所用があって出掛けていたのですが、夕方まで時間が空いてしまって、どうやって時間をつぶそうかと考えていた時、確か昨日のニュースで名古屋場所のことをやっていたと思い出し、すぐにタクシーに乗って駆けつけました。時間つぶしに大相撲観戦に行くという人も少ないと思いますが、なぜか迷いなく吸い寄せられるように見に行ってしまいました。そのことがきっかけになって、両国の国技館で行われる場所には毎場所出掛けていくようになりました。
 大相撲は一年を通して、奇数月に開催されるので、それを心待ちにしてこちらの一年のリズムが出来ているように思います。一月の初場所は国技館に大きな門松としめ飾りが飾られ、場所の雰囲気も清々しくまた新しい年になったことを感じます。大阪場所の声を聞くと、春が来た事を実感し、名古屋場所が始まると、暑い夏の到来で、福岡場所をテレビで見ると、そろそろ今年も締めくくりになってきたと大相撲のそれぞれの場所からから季節感を感じます。
 実際の場所を見る魅力は多々ありますが、テレビ観戦とその場に臨んで見るのと一番違って感じる点は、その場の時間の流れ方です。テレビでは夕方からの上位の取り組みの実況放送だけですが、実際には朝からずっと休みなく取組は行われています。飲物や食べ物を食しながら、今の決まり手や贔屓の力士について語らいながらののんびりした観戦は、現代生活にはない時間の過ごし方を体験させてくれます。またテレビでは、次の対戦力士名などが画面上に文字で現れて勝負ごとの区切りをつけるのですが、会場では坦々としきたりに則って進行していきます。さらに、今の取り組みをもう一度というリプレイの画面や解説もないので、全体からすればメリハリなく進められていく印象ですが、勝負ごとの見る側の真剣さは、二度と見られないその一瞬に意識を集中させるということの繰り返しで飽きることがありません。例えば歌舞伎で芝居を楽しみながら、幕間に幕の内弁当を食べ、また楽しむという、日本人が伝統的に好んで持つ独特の「間(ま)」の感覚や、ゆったり過ぎる時間の感覚がこの大相撲からも感じられるのです。


2003年2月

浮世絵

 2002年秋、千葉市美術館で浮世絵の「鈴木春信展」が開催されました。私は絵画空間(絵の中にどのような空間が描かれているか、画家は描こうとする空間をどのように捉えて描いたか)の研究をしていて、春信の「坐鋪八景」という見立絵のシリーズものの絵画空間を分析したことがあるので、その展覧会には是非行きたいと思っていました。
 しかし、作品制作や仕事が忙しく、日ごとに展覧会の最終日が近づいていました。そんなある日、久しくご無沙汰している中学時代の恩師である美術の先生からお電話をいただき、「春信展に行って来たら、若いときにはわからなかったんですけれど、とにかく絵の中の女の人がかわいらしいのよ。是非見に行ってください。」といわれ、何をさしおいても行かなければと、やっと時間を作り出掛けました。作品は思いのほか出品点数が多く、あらためて春信のエネルギッシュな仕事ぶりに驚くとともに、その後に続く錚々たる浮世絵師達に影響を与えたに違いない多様な表現に魅せられながら、感激して鑑賞してきました。
 日本の浮世絵版画というのは、その制作行程がシステム化されて、肉筆の原画を描く絵師、それを版木に彫る彫師、その版を使って版画を摺る摺師、そして、それらの制作者達をまとめ、版画の企画から販売までの全体のプロデュースをする版元といわれる人がいて作品が生まれてきます。春信の画業の中で、それらがスムーズに行くのは晩年に錦絵といわれる多色のものが出てきてからということになりますが、若いときから休みなく制作を続けた成果が、錦絵創始期最高の人気絵師となって結実します。
 それらの作品は、当時かなり高価であった最上質の奉書紙に、透明感ある色彩を調和良く配色し、春信好みの繊細な画風を表現しています。描かれる主題は、役者絵や美人画などから始まりますが、江戸の町に暮らす若い男女や評判の町娘、母と子の姿など、人々の日常のひとこまを単純な構図で切り取った明快な作品として生まれます。それらの人物は他の浮世絵師のものと比べると中性的な感じがして、温かく、上品で美しく、小さい画面の中で情感的で洗練された存在となって、豊かな色彩とともに安らぎを感じさせてくれるように思います。現代の私達は美術館に行って、額に入った浮世絵作品を対峙するようなかたちで眺めますが、200年以上前の武士や趣味人達は、高級紙に摺られた浮世絵を実際に手に取って風合いを感じつつ、眺め、鑑賞したのかと思うと、その贅沢さに羨ましくなります。


2003年3月

京都

 関西には仕事柄行く機会が多く、奈良、京都、その周辺の見どころには、殆ど行き尽くしているので、最近ではどこそこに行ってあれを絶対に見なければということもなく、交通の便が悪く普段行きにくいところや、ルートから外れるところや、かつて行ったところでも印象深かったところ、というような場所に足を向けるようにしています。
 冬の京都・奈良はとても寒く、団体客もぐっと少ないので、ゆっくり見物して回るのには、寒さを少しだけ我慢しさえすれば、良い時期と言えるでしょう。昨年の二月頃、京都を訪れていた時、さて今回はどうしようかと京都の地図を頭に描いてみました。東大路通に沿って東山側の麓を歩くルートなどを考えてみると、三十三間堂辺りから出発して、俵屋宗達の板戸絵がある養源院、長谷川等伯の襖絵の智積院、六波羅密寺の空也像、清水寺から八坂神社、知恩院、南禅寺、湯豆腐でもいただいてから哲学の道、銀閣寺という線が描けてきました。
 このルートの途中鹿ヶ谷に、住友コレクションで知られる「泉屋博古館」(せんおくはくこかん)があります。この美術館は中国古代の青銅器や鏡鑑の優品を所蔵しているのですが、寒い冬と暑い夏には閉館していて、一年の半分くらいしか開館していません。ですから、非常に訪れにくい美術館のひとつなのですが、そのパンフレットに、青銅器のコレクションとしては、中国以外では、質量ともに最も充実したものであると書いてあるように、他の美術博物館では見られない、迫力ある巧みな青銅器を多数見ることが出来るめずらしいところです。
 こういう風に、ちょっと行きにくい場所とか、手続きをふまないと入場できない所などで、何度訪れても満足するという場所が京都にはたくさんあります。その代表的なものが、桂離宮と修学院離宮ではないでしょうか。これは宮内庁に申し込みをして許可証をもらってから、指定された日時に見学をするというものです。どちらの離宮も非常に考えられた敷地構成になっていますので、春夏秋冬いつ訪れても庭の木々からそれぞれに季節感を感じ、特に修学院の場合は、借景になっているので、秋の紅葉の時季などは遠くの色とりどりの山並みをも取り込んで、素晴らしく雄大な景色を庭に立って見ることが出来ます。
 良く知っていると思っていても、行くたびに新しい発見があることが、京都が人をひきつける魅力と素晴らしさだと思います。


2003年4月

色を伝える

 学生時代の色彩の基礎課題に、「木の枝を一本持ってきて、その枝の色を観察して、百色の色を再現し色彩構成しなさい。」というものがありました。クラスの中では誰もが、こんな課題はナンセンス、この枝の中に百色もあるわけはない、だいたいその色を再現して作るっていうのは正気の沙汰ではないとか、これからしなければならない作業量を想像して不平を口にし、途方に暮れていました。しかし、そうはいっても出された課題なのでやらなければならず、みんなため息を漏らしながら始めると、口数も少なくどんどんと夢中になって、ミクロの世界の観察までしだしました。よく見ると木肌の小さなでこぼこ、枝と新芽の境。幹の皮をむくと中の芯の瑞々しい淡いみどりの数々。葉っぱの裏表は勿論、葉脈の微妙な色合い。なあんだ、百色なんて簡単だなあと思えて、教室は静かな興奮状態が三週間ばかり続きました。これで何が鍛えられたかというと、ものをじっと観察して発見する目と感動する心、百色の色を絵具で再現する技術、色彩構成力、そして制作を持続する忍耐力です。この課題では、ある種の自信と、はっきりとした達成感が得られました。
 しかし、自分がこうやって見た色や、相手に伝えたいと思う色を絵具で表現するということは、そう難しいことではありません。それよりも色を言葉で表現することの方がはるかに難しいと、常々感じています。
 『伊吹嶺』の中にも、色を表現する言葉や、具体的な色名、または「桜」や「菜の花」などの花の名が見られます。しかしそれが、色味や存在を説明するばかりでなく、季節感やその周りの状況、またさらにその句の世界観をあらわす言葉として表現されている俳句が見受けられます。そのような句は、自分なりに、読みながらすぐに映像が頭の中に浮かんでくるのですが、いつも私自身の中で、解決がつかないのは、鑑賞者の私が想像したその様な視覚的な映像の世界を、果たしてこの作者は表現しようとしたのかということです。つまり、その句から私が思い描いた世界は、読み手の力不足による、作者の意図したものとはまったく違う色彩世界であり、また表現しようとした作者の世界観を読みとれなかったのではないかということです。
 あらゆる表現は、作者と鑑賞者が思うものが、常に一致しているものではないでしょうが、言葉を通して、作者の思い描いた色彩に近づきたいと、様々な句を読みながら思うのです。


2003年5月

世界地図

 地図というものは、ある地点を探すのに便利なものであるばかりでなく、何を目的にそれを使用するかで、実用的で多種多様なものがあります。その中にあって世界地図は本来の地図の役割以上に、それを眺めているだけで、世界のスケール感が伝わってきて、見る者を様々な想像の世界に引き込むものと言えるでしょう。
 私達がよく目にする世界地図は、日本が真ん中にあって、東には広い太平洋と南北アメリカ大陸、西にはアジアからヨーロッパ、その南にはアフリカ大陸というようになっています。そして世界というのはそういうふうに見えるものなのだと子供の頃から無意識に思いこんでいました。ところが海外に出掛ける機会が出来て、あちこちの国で作製された世界地図を目にしたとき、日本で見るのとは大変違うものであることを知りました。それはどういうものかといいますと、そこで作られた世界地図は自分の国が地図の中心になっているということでした。具体的な違いを挙げますと、例えばヨーロッパで作られた世界地図を見ると、当然ヨーロッパ・アフリカ大陸が地図の中心に位置し、その東にロシアやアジアが続き、東側一番端に日本があるのです。ヨーロッパから西に目を向けると、大西洋があり、その西に南北アメリカ大陸があるのです。それによって実はヨーロッパとアメリカはそれほど離れてはいないのだということがわかります。また、極東という言葉を視覚的にはっきりと理解したのもこの地図を見てからです。つまり、その世界地図の端には東に日本、西にアメリカがあるのです。太平洋は地図の左右で分断されてその広さを認識することができません。そして同様に、アメリカで作られた世界地図は、南北アメリカ大陸が地図の中心になっているものがあります。
 これらは、日本の世界地図を見慣れた目には、自分が知っていた世界とは異なる世界があるように見え、地球の表面をどこで切って開くかで、世界はまるで違う見え方をするのだということに気づかされます。球体という三次曲面を地図という二次平面に置き換えるのですから、形の上では当然歪みが出てきますが、見る側のこちらの意識で球体の表面はいかようにでも展開させていくことが出来るのです。地球はひとつですが、様々な世界地図が存在することを知ってからは、世界全体の見え方や地域に対する認識が違ってきて、今の世界の動向への関心がますます高まり、もっと世界のことを知りたいと思うようになりました。


2003年6月

作品評

 昨年秋、ロサンゼルスで日本の現代文化を紹介する催しがあり、主催者からの依頼で個展を開催しました。海外での作品の発表は何度かありましたが、個展形式では初めてでしたので、作品を送り出してから、会期間近には現地に赴き、作品設置に立ち会い、レセプション出席と、気の抜けない2ヶ月間を過ごしました。
 私の作品は、何かをしっかり見てそれを表現していくというものではなく、人間の精神を抽象的に表現していこうとする方向の作品なので、それがあちらの人達にどのように受け止められるのか、想像ができなかったのですが、多くの方々が、実にオープンに感じたことを話してくださり、思っていた以上に好意的な評価をいただきました。
 作品を制作するときには、それは自分自身のものですから、束縛されずにあれこれ自由に考えます。しかし、出来上がって自分の手を離れ、世の中に発表された時には、本人が作品に対して制作過程で感じていたことや思いなどは表面に出ず、自立したものになっていきます。今回は作品評の日米の大きな違いは特に感じられませんでしたが、テーマの独自性というものをかなり強く求めているということが感じられました。
 美術作品は、見る人が自由に感じればいいのだということがよく言われますが、優れた作品には、ただ感じるという以上に人をひきつける吸引力のようなものがあり、それが何なのかということが、結局は作品の良い評価につながっていくのだと思います。
 先日、美術大学入学のための受験予備校で、作品の講評会に立ち会う機会がありました。描き上がった何十枚という人物デッサンが上位からずらりと並び、それを二人の先生が、一枚ずつ丁寧に人体の構造や技術的な解説をし、言葉を選んで理由をはっきりさせながら批評していきました。私もかつてこういうところからスタートしたのですが、その頃と変わらないこの講評会で、今であれば、先生の言っていることがすんなり理解できる訳ですが、当時は未熟さ故に、なぜまずいのかと理解できないことばかりでした。
 そうやって機会あるごとに、作品に対しての評をいただいていると、本質がおぼろげながらにわかってきて、だんだん自分が表現したい方向性がはっきりしてきます。批評はピュアな心で柔軟に受け止め、自分自身が次のステップに行く助けにしたいものです。異国でのひとつひとつの言葉は、私にとってこれからの制作の大きな糧となりました。