2003年7月
春から初夏にかけて無段階に変化していく木々の緑の美しいこと。じっと見ているとその綺麗さに目が吸い込まれて心が洗われ、じわじわとエネルギーが満ちて来るようです。寒かった冬から解放され、この刻々と変わる新緑が日本の風景をまた新鮮なものにしてくれて、何か希望のようなものを自然に心に抱かせてくれます。
色というのは無限にあるのですが、緑というひとつの色をとっても、その中には色名もつかない、言葉にもしようのない、表現するには難しすぎる色が限りなくあります。その緑がいつも見慣れている風景の中で少しずつ変化していく様子を見るのは本当に楽しいことです。
しかし、そういう気持ちになってきたのは、年齢を積み重ねて来てからで、以前は、目の前に繰り広げられているそのような自然の営みには殆ど気づかず、現実に自分に起こっている物事ばかりに関心を寄せていました。
私は自分の住まいとアトリエを建てるときに、建築家の方に中庭のある家をお願いして設計していただきました。その時、中庭の一角に木を植えるとおっしゃったので、常緑樹にして下さいと迷いなくお願いしてしまいした。その理由は、忙しくて庭木の手入れが出来ないことと秋の落ち葉を掃く時間もないという思いからでした。ところが、「とんでもない、木は大事です。閉じられた空間の中庭の木だからこそ四季の変化を感じさせる木を植えるべきです。そういう木がどんなに気持ちを和らげてくれるか。」と言われ、はっとして、日々の忙しさの中で心を失っていた自分に気づかされ、おっしゃる通りにふさわしい木を植えていただきました。
それが今では、本当にその木の四季の変化が楽しくて、また季節と季節の間の移り変わりにまでも小さい発見があります。夏には葉も少しだけ大きくなり、木陰を作っていくらかの清涼感を感じさせてくれますし、少しふっくらした蕾が出来て白い小さな花を咲かせて、実のような堅い物ができて、鳥たちが気まぐれに飛んできては突っつきます。そしてだんだんと葉の色が橙から茶色、薄茶色とかわり、ゆく秋と、来るべき冬を覚悟させ、カサカサと乾いた落ち葉を掃く音も心地よく楽しみです。冬になると堅さを感じる幹と枝だけになり、そして春の少し前には、真珠色の芽を準備し、はっとしている間にまた春がやってくるのです。深い考えもなしに現実的な答えをした愚かさに反省をして心から感謝しています。
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2003年8月
暑く湿度の高い真夏には、清涼感を求めて透明なガラスの器に自然と目がいってしまいますが、ガラスという素材について思いを巡らせてみようと思います。
ガラスという素材は古くから作り出されていて、ヨーロッパの博物館などを歩いていますと、紀元前に作られたガラスの小瓶や飾り物などを多数見ることができます。それらは出土品で、だいたいの物はガラスに石化した土のような塊が所々にこびりついているのですが、表面は柔らかな虹色がかった光沢を持ち、当時は建築物などが石や粘土で作られていた中で、その透け感がある魅力的な色を放つガラスが貴重な物であったことをうかがわせます。その後、ヨーロッパのガラスの歴史は華やかに発展していき、キリスト教によってつくられたビザンチン様式時代の教会堂の中には、小さな色ガラス片と色石片を壁や天井に埋め込んでつくったモザイクという絵が、実に重厚で荘厳な空間を作りだし、そこを訪れる人々を魅了しました。そして、中世ではそのガラスの技術がエマーユという日本でいう七宝焼きの技術に高められ、宝石のように宝飾の一部にはめ込まれたり、聖人の遺骨片を入れる聖遺物箱の装飾として付けられ、貴重な輝きを演出します。そして、板ガラスを作り出す技術が発展し、十二世紀頃のゴシック様式時代には聖書の話をテーマにした図柄の、大聖堂のステンドグラスがつくられました。外からの強い光がそれらの透ける色ガラス窓を通して入ってくる時、その宝石箱のような空間に足を踏み入れた人々は現実離れした天に向かう大空間の中で、崇高な世界に包まれる幸せで信仰心がより深いものになっていったことでしょう。その後二十世紀になろうとするときアールヌーボーという新潮流が出てきて、ガレを代表とするガラス作家が透明感をおさえた色ガラスで植物や虫などの有機的な図柄をつくり、今までにはなかった新たなガラスの魅力を引き出しました。
現在では、チェコやベネチアなどに特色あるガラス製法が見受けられますが、日本には正倉院宝物で知られるように、当時、シルクロードを通して紹介されました。浮世絵などに登場するビードロや、薩摩や江戸の切り子細工の繊細なカット、日常品ではかき氷の器、金魚鉢、風鈴など、風情がある身の回りの器物が作り出されました。
物を作る素材には木や金属など様々なものがありますが、日本にあっては、ガラスがいちばん季節感を感じさせる素材なのではないでしょうか。
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2003年9月
イラク戦争がまだ終結しない4月初旬に、バクダッドのイラク国立博物館で所蔵品が略奪に遭い、数千年くらい前の古代メソポタミア文明の貴重な文化財が持ち去られました。当初の発表ですと、その数は何万点にものぼるということでしたが、その後調査隊が入って調べた結果、数千点であろうという発表がありました。数については始めの報道よりずっと少なくなって良かったと思う反面、戦争時に美術品略奪が行われるという紀元前のローマ時代から続くこの愚行に憤りを憶えました。4月から5月にかけてのこの一連の報道から目が離せず、あらためて人々にとって美術品の価値とは何かと考えさせられました。
またそれ以前の2001年9月のアメリカでの同時多発テロの半年前に、アフガニスタンのバーミアン渓谷にある、5〜6世紀につくられた仏教遺跡の大石仏像が、イスラム原理主義タリバンによって爆破され、仏教美術史の重要な一部を失いました(その後、今年の7月にユネスコにより世界遺産に登録されました)。それから一週間もたたないうちに、それらの石仏破片等はヨーロッパの美術市場に出てきて、日本にも入ってきました。壊される前の破壊予告に対して、国連事務総長などが現地に赴き、貴重な文化遺産を破壊しないように要請をし、世界の有識者達も声明を出してタリバンに呼びかけるということをし、世論もこの現代でその様な事が行われるはずはないのではないかと思っていましたが、現実には無残な結果になってしまいました。その時も、首都にある国立博物館から何千点にもおよぶ考古物が略奪され、残念ながら散逸してしまいました。
アフガンニスタンにしてもイラクにしても、その行為が起こったあとに、世界の主要博物館やユネスコや有識者が立ち上がり、文化財の流出阻止を呼びかけましたが、それらの取り組みはこれからもかなり困難なことと思います。また、イラク戦争では、アメリカ大統領の文化財諮問委員会委員長などが、米国が略奪阻止の準備をしておけば、この略奪は避けられたはずと、抗議の辞任をしました。
歴史の中で失った文化財は計り知れませんが、どの時代にでも人の手で生み出された美術品は、それ一点しか存在しないことにより貴重なもので、時代精神を語り、人間の創造の素晴らしさを示してくれるものです。戦争と美術品というとまったく結びつかないように思われがちですが、歴史の中で繰り返し起こって来た事実に学び、これからはもうこういうことがないようにと願うばかりです。
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2003年10月
イタリアのローマ、テルミニ駅に近いところに、小さい中庭のある、こぢんまりとしたローマ国立博物館新館(マッシモ宮)があります。この博物館に展示されている陳列品は、紀元前二世紀から紀元四世紀くらいのローマ美術を扱っています。建物は三階建てで一、二階には、肖像彫刻を含めた彫像、モザイクなど、地階は紀元前からのコインとメダルのコレクションで、他の博物館と同様にそれらを自由に見学することが出来ます。しかし三階だけは解説付きの見学時間が指定され、美術館のガイドの方がイタリア語と英語で解説をしながら一緒にグループで見学するようになっています。この階の主なものは、内容的に質の高いフレスコ画(壁に塗った漆喰が乾かないうちに、水で溶いた顔料で描く技法)とモザイクです。
三階の第二室には、この博物館の一番の見どころとなる作品があります。時の皇帝アウグストゥスとリヴィア妃の邸宅の一室から発見された見事なフレスコ画で、展示室の壁いっぱいに四面全面にはめ込まれています。描かれているのは楽園風庭園で、穏やかな青空を背景に、草木、色とりどりの花、実をたわわにつけた木、飛んだり枝に留まったりしている多種類の美しい小鳥、柵、小鳥が入った鳥かごなどです。それらの描写は、対象を抽象化したり誇張したりせず、よく観察された自然の筆致で秀逸です。その壁画からは、優しさと可憐さと豊かさと、優雅さと格調の高さと自然さと、後のルネサンスの遠近法とも、中国や日本の水墨画とも趣の違う空間の深遠さが醸し出されています。
部屋の中央に立ち、ゆっくりと四方の壁を眺め、近くによって丁寧にその細部を見ていると、何時間でもこの部屋にいたいという一体感で、しっくりと落ち着いた気持ちになります。皇帝と妃はここで何を語らい、どのように過ごしたのでしょうか。ヨーロッパには立派な宮殿やお城や邸宅があり、そのどれもがその時代の粋を集めた華麗な装飾で飾られていますが、完璧で堅苦しかったり、権力の象徴であったりして、こんなにも身近に感じる、心のこもった壁画というようなものに出会うことは殆どありません。
この部屋のぐるりに、緑の庭園を描くと決めたのは、この壁画を描いた画家ではなかったかも知れませんが、このテーマを持った独特な感性のその画家は、室内に居ながらにして、外の爽やかな空気を吸っているかのような広がりのある空間を壁画で創り上げたのです。二千年前の豊かな生活が想像できる惹きつけられる作品です。
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2003年11月
今年も十月二十五日〜十一月十日までの約二週間、特別展「第五十五回、正倉院展」が奈良国立博物館で開催されます。正倉院宝物ファンの方は多いので、敢えて展覧会の内容を説明するまでもありませんが、正倉院に収蔵されていた、奈良時代の聖武天皇の遺愛品や、東大寺開眼会関係に使われた品々を中心とした約九千点の収蔵品の中から、毎秋、「曝涼」(虫干し)の慣習から一部ずつを出品するものです。天皇の身の回りの品々には、はるか西方からの異国情緒漂う物もあり、宝物の背景には当時の人々の交流が見えるようで、壮大なロマンを感じる展覧会です。
私は学生時代に日本美術の講義で正倉院宝物の内容と、この展覧会が催されていることを知りました。毎年少しずつしか出展されないので、宝物のおおよそのものを知るには十年続けて見るようにとのことで、五年は連続して行きましたが、その後はスケジュールの都合で時々しか行くことが出来なくなりました。
毎回、正倉院の中でも特に優れた宝物が何点か選ばれて出陳されます。多くは工芸品といって良いと思いますが、使われている素材の種類の多さ、技術の精緻さ、さらに造形としてのデザインセンスの高さは、いかに当時の物づくりの志が高かったかとい事を見せてくれますし、その高度な水準と見事な出来栄えに魅了されます。
代表的な正倉院宝物は、良い状態に保たれてきているので、千二百年以上前の琵琶などの楽器、調度、服飾、文書、染織品、薬、日常雑器、武具、仏具などが色鮮やかに目の前に並べられると、当時の生活の精神的ありようが見えてきます。まだこの展覧会をご覧になったことがない方は、是非一度、秋の奈良に足を運んでいただきたいと思います。
そして、その時忘れてはならないのが、正倉院そのもの、つまり建物です。こちらは東大寺大仏殿より奥まったところに現存しています。以前は正倉院展の時にだけ公開していましたが、現在は年間を通して見ることが出来ます。堂々とした高床式校倉造りの木造建築は、日本の多湿な気候から、それらの貴重な品々を守り続けてきました。その自負のようなものを感じる立派な建築物です。現在では倉の中に宝物は入っておらず、隣の敷地に建っている空調が整った建物に移され、宮内庁によって管理されています。
正倉院とその宝物は、それを生み出した当時の人々の誇り高い心の反映にほかならず、それが、時を経た現代にも私達の胸を打つのだと思います。
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2003年12月
都内のいわゆる盛り場といわれる新宿や渋谷を歩いていて、目線を少しだけ上に上げると、人が多いこともさることながら、街の看板の多さに、香港の街並みとまではいきませんが一種アジア的といいますか、日本の都市の独特な景観を感じます。奈良や京都のように、古都としての景観を守るために、街の色彩というものを規制しているところもありますが、制限のない繁華街には大きな屋外広告塔、ビルからの突き出し看板、置き看板等が所狭しと設置されています。業種によっては強い色彩の配色のもの、大きなロゴマーク、太くはっきりとした文字が書かれています。おまけに近年では、プラズマの画面に動く映像も加わり、音声とともに街の表面をこれでもかと言わんばかりに広告が増殖しています。
もうだいぶ前になりますが、街の景観を研究している方の仕事をみせていただいたことがあります。それは主に街並みの看板の姿とその色の観察だったのですが、私が見たのは、東京の銀座通りのある地点に立って、大通りを写真に収め、その写真から看板を消し取るというものでした。景観に配慮して電柱を取り除き地下ケーブルにした銀座通りは、車道と歩道と建築物だけのすっきりとした街ではありますが、看板をすべて取り去ったあとは、無味乾燥で、名のある通りという個性がなく、人を惹きつける要素を失ってしまっているようでした。
かつて、壁によって分けられた東西ベルリンがあったころ、東側の美術館に行くために壁のチェックポイントで手続きをして何度か東側に入ったことがあります。壁一枚で街の景観は、とても地続きとは思えないほど違いました。そこには看板がほとんどなかったのです。西側は自由主義を感じる華かな街の様相を呈していましたが、東側では風景の中に看板が見当たらないということは、落ち着いて、すっきりとしていて清潔で開放的な街並みというより、こちらの先入観もありましたが、自由な発想を奪い取られ、抑圧されているような感覚をその街から感じたのでした。
看板は街という構造から考えると実に表面的な事かも知れませんし、景観のことを考えるとできればない方が良いということもあります。しかしひとつの情報としての看板は街の個性を作り、見る側も無意識のうちにその風景が心に刷り込まれ、その風景だからこそ活気づいたり、久しぶりに訪れた街が懐かしかったりするということもあるのかもしれません。
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