2005年1月
この「点景」が始まった二年半前は、原稿をパソコンから打ち出して郵便でお送りしていました。その後メールの添付で送る事になって、そのうちに原稿と一緒に何か写真をということで、パソコンに保存してあるデジカメの写真から探したり、合成写真を作ったりしてきました。そのような作業もパソコンがあるからこそ、家で出来るわけです。
思えば、この二〜三十年のコンピュータの浸透は凄まじいものです。学生時代に、一年先輩が、これからはすぐにコンピュータを便利に使う時代になるから、早く覚えた方が良いと力説していたのですが、目の前にないものを必要だといわれても、個人が家でコンピュータなるものを持つとか、使うとかはピンとこなくて、現実問題として考えられませんでした。そして、先見の明があったその先輩は、今ではその世界で先駆的な有名人になってしまいました。
しかし、こんな私でも、ひたひたと押し寄せてくるコンピュータの気配を感じ、重い腰を上げ、覚えなくてはと真剣に思ったのですが、キーボードの打ち方さえ知らず、基本の指使いだけ教えてもらって、あとは大好きな手紙を、友人に向けてせっせとパソコンで打っては、キー操作の感覚を覚えて、かなりの手紙がパソコンになってしまいました。さすがに目上の方には、パソコンが印刷する手紙では失礼と思い、下手な字で手書きで書いています。
パソコンは何年付き合ってもよそよそしく、何の前触れもなく突然止まって、微動だにしなくなることがありますが、モニターに向かって怒っても、すでにこの道具がない生活は考えられず、いつも自分の気持ちを静めてから再起動です。
私の作品制作のためには、直接的には必要な物ではありませんが、俳句をなさる方々は、パソコンに打ち込んで作句をしたり、吟行でのメモ書きを保存したり、デジカメの写真を取り込んだりなさっているのでしょうか。手で紙に書く俳句と、パソコン上で創作していく俳句には違いがあるのかと、この原稿を打ち込みながら考えています。
このところ暖冬で昔のように大雪が降らなくなったと言われています。雪国に住んだことがないので実感が湧きませんが、昔の東北は一晩であっという間に雪が降り積もり、すぐに二階まで雪に埋まり、外への出入りは二階からしたものだということです。子供達は竹で作った手製のスキーでよく遊んだものだったなどと聞くと、十六世紀ネーデルランドの画家、ブリューゲルの「雪中の狩人」などを思い出してしまいます。
二月の雪には特に忘れられない思い出があります。何十年も前、入試の前日の夕方から、激しい雪が降り、どんどんと街が銀世界になっていきました。このままいくと電車が止まって明日の受験が出来なくなってしまうのではないかと、すぐに長靴を買って、実技の道具(デッサンや水彩の道具)の大荷物を持って、東京の親戚の家に行きました。翌日までにさらに雪は降り積もり、家の方のローカル鉄道はやはり止まり、東京では山の手線など地上に走っている電車が全て運休しました。速い判断をしたので、時間に遅れることなく試験会場に行けましたが、実際には一時間遅れで試験が始まりました。雪が降ると良いことがあると言ってくれた人がいますが、その大雪が今の私の出発点です。いまだに、山の手線のある場所を通過するときには、決まって当時の入試のことを思い出します。
近年二月に、仕事で札幌や新潟に行く機会が続きました。わずか一時間半前に飛び立ってきた羽田には雪の気配すらなかったのに、札幌に着いたら、マイナス十二度で一面の雪景色でした。その変化のスピードに気分がついて行けなくて、市内に向かう車窓から何処までも続く真っ白な景色をボーッと眺めていました。街は「雪祭り」のシーズンで、マイナスの世界にもかかわらず、大勢の人が雪像の前で写真を撮り賑わっていました。新潟に行ったときには、途中の車窓から川端康成の「雪国」を体験しました。
普通の雨では、後々まで記憶に残るこれほどのことはないでしょうが、二月の雪は様々なことを思い出させます。
昨年は実によく、東京の歌舞伎座に通いました。海外に行っていた月以外は殆どの公演を鑑賞したことになります。確かに何年も前から、事あるごとに歌舞伎は見続けていますから好きであることには違いないのですが、研究上必要に迫られてと言った方が良いかも知れません。
昨年の話題は何といっても、五月六月に東京を皮切りに行われた十一代目市川海老蔵襲名披露でしょう。父親である現十二代目市川團十郎の長男で、幼名ののち新之助を襲名して、この度海老蔵襲名となったわけです。演目にはもちろん歌舞伎十八番の「暫」「勧進帳」「外郎売」「助六由縁江戸桜」など、市川家のお家芸の代表作が上演され、若い力が見事に一歩一歩日本の伝統芸能の世界を確実に伝承して来ているということを確認する舞台でした。特に荒事というジャンルの「暫」の鎌倉権五郎役は、父親の団十郎が若かった頃演じたのを実際に見ているので、新海老蔵が三升の紋のえび茶の大衣裳を来て花道に出てきたときには、長い歴史を通じて培い、子へと受け継がれていく歌舞伎の家というものの重要さと、そうやって客を引きつけ、楽しませようという歌舞伎本来の姿に、時の流れと伝統を受け継ぐ重みが感じられました。特に今回の襲名披露は、幕末以来じつに百五十年ぶりに、団十郎と海老蔵の名前が揃って看板に並ぶということで、歌舞伎界では大変意味のある襲名になりました。襲名披露にはつきものの口上では、市川家ゆかりの役者が、日本画家が描いた大輪の白い花の絵を背景に、ずらりと舞台上に並び、普段の演目では見られない生の表情と語りで次々と早口でお祝いを言って笑わせ、観客との距離感を縮めて喜ばせ、舞台を華やいだ雰囲気に盛り立てました。
今年は三月から、昨年ニューヨークでも歌舞伎公演をし、芸達者でよく知られてファン層も厚い勘九郎が、十八代目中村勘三郎を襲名するということで、二年続きで歌舞伎界は話題性のある賑やかな一年になりそうです。また引き続き歌舞伎通いが続きそうです。
大作
イタリアの海上都市ヴェネチア。アドリア海の北、一番奥まった静かな海にこの島はあります。飛行機の窓から眺めながら降りていくと、青い海に浮かぶ、かせたオレンジ色の明暗のかたまりがとても美しく幻想的に見えてきます。ここは十六世紀に地中海貿易で栄え巨大な富を蓄えた、貴族階級と市民階級が豊かに暮らす島でした。
今年も隔年で開催される、現代美術の国際展ヴェネチア・ビエンナーレを取材しに、夏のヴェネチアを訪れる予定にしています。無数の運河からなるこの島は車が入らないので公害のない島とも言われ、初めて行ったときには、何処へ移動するにも水上バスといわれる船に乗ることに、何か足を奪われたような感覚がして、地図を見ながら路地から路地へと良く歩きました。
島の中心的な場所に、華麗なビザンチン様式で知られるサンマルコ寺院があります。内部の金色のモザイクは精巧で知性を感じ重厚です。そしてそこに併設するような格好でパラッツォ・ドゥカーレという宮殿が建っています。宮殿は広く、大小様々な部屋がありますが、どの部屋にも絵画の装飾が施され、壁が絵画で埋め尽くされていると言っていいほどです。中に、大評議会広間というとてつもなく広い部屋があって、その正面に、十六世紀の画家ティントレットが描いたとされる「天国」という題名の、世界で一番大きな油絵(7×22メートル)が壁一面にはまるように取り付けられています。近くに立つと、壁が自分に迫ってくるような感じで、いったい何がどのような構図で描かれているのかさっぱりわからないのですが、奥行き方向に何十メートルも下がって眺めると、ヴェネチアの守護神である聖母マリアの戴冠であることがわかります。その周りをもくもくと立ち上る厚い雲の中に大勢の人々がいます。この作品は、当時おそらく大勢いた弟子または協力者と共に制作されたものでしょうが、それにしても巨大としか言えないその絵を前にすると、他の絵にはない画家の強烈な意志みたいなものを感じずにはいられません。
オランダで最も大きなホーヘ・フェルーウェ国立公園は、アムルテルダムから東に約80キロ、ドイツとの国境に近いところにあります。その広さは皇居の約50倍だそうですが、実際に行ってみると、美しく整備された森が延々とひろがって、方向を見失ってしまう感覚がします。
この森はもともと、ハーグに住んでいた貿易商アントン・クレラー=ミュラーが週末に狩りをするために二十世紀の初頭に購入した土地でした。夫人のヘレーネは美術品のコレクターで、ゴッホの作品に魅せられてから、ルノアール、スーラ、ピカソ、モンドリアンなど、近代絵画の発展の歴史を物語る作品のコレクションをして、その森の中に自然と文化が融合した大きな美術館を建てることを夢見ていました。実際に森の中の「狩猟の館」といわれる別荘で、その美術館構想を練って、実物大模型まで作って、まわりの景観との調和を考えたりしていました。しかし、夫の貿易会社が当時の不況で打撃を受けて破産。不動産の売却を余儀なくされるのですが、コレクションしてきた美術品を散逸することなく、何としても守りたいという強い意志で、森の中に美術館を建てることを条件として、その広大な土地と、美術品のコレクションを国家に寄贈しました。そのような経緯で森は国立公園になったわけですが、1938年に、国はそこに国立クレラー=ミュラー美術館を建設して、初代館長にヘレーネを選びました。
ヘレーネがコレクターになったきっかけは、ゴッホの「四本のひまわり」という作品を見て、作家の孤独な魂を感じ、芸術とは人間の魂を形にしたものだという考えに至ったところからと言われています。その後ゴッホの作品を次々に購入して、最大級のコレクションを持つことになりました。
クレラー=ミュラー美術館と、ゴッホ美術館の所蔵品を中心に、今年は3月から東京国立近代美術館を皮切りに、大阪、名古屋と九月下旬まで「ゴッホ展」が巡回されます。私も久しぶりに対面するゴッホの「夜のカフェテラス」から、強烈な黄色と青の世界を感じて来たいと思います。
雨の中を博物館に行こうという人はさすがに少ないらしく、6月の博物館は、いつもよりずっと広く感じられます。外はジメジメでも、国の歴史を物語る大切な陳列品の保護のため、展示室内の温度や湿度が管理されていて、気持ちよくゆったりと静かに展示を見ることが出来ます。
国立の博物館は、昨年から独立行政法人になったので、今までにない、企画運営やサービスが充実してきました。東京、京都、奈良と、3館でしたが、今年の10月には福岡の太宰府に4館目にあたる九州国立博物館がオープンしますので、今年は、また日本の博物館の歴史の一ページが始まる記念の年と言って良いでしょう。それぞれの館の収蔵、展示内容は地域の特性を生かしたもので、東京は、日本と東洋諸地域の歴史を博物資料と美術品で概観するように、京都は、日本の歴史資料、考古遺物などの文化財、奈良は、仏教に関わりの深い古美術品、考古遺品というように、それぞれが主たる所蔵品を分けて構成しています。
私は上野にある東京国立博物館に行くことが多いのですが、展示室に入っていくと、照度を落としている室内は、博物館独特の展示室の古いにおいがして、自分の靴の音だけが室内に響き、展示品の前で立ち止まると、天井の高い無音の室内は時間が止まったように感じられます。そういう時には、何度も見てきた常時陳列品でも、新鮮に思えてきて、今まで見過ごしてきた、それらのちょっとした角度や配色に気づくとき、幾多の歴史を経てなお残ってきた品々に、物事に動じない力強さと生命力を感じ、心が打たれます。足を進めていくと、教科書にも出てくる、国宝の本物が自分のためだけにあります。最高の技術で手も時間も惜しまずに作られた品は、これくらいの気持ちで作品制作に向かわなければいけないと無言で教えてくれます。
ひとときが過ぎ、博物館を出てもなお降っている雨空を見上げて、今日一日普通に過ごしてしまったら、心の奥に静かにたまるこの様な感動は得られなかったという満足感と充実感で、また雨の中に傘を広げます。
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